天皇論序説 (by 高杉公望)

 

 天皇は近代日本−−幕末維新の激動から戦後の混乱期に至る−−において社会的統合の均衡解として機能したことはいうまでもないことである。エリート的な政治指導層の天皇にたいする尊崇の念は、まず何よりも激動と混迷のなかにあった日本社会における、その神秘的なまでの社会的統合機能にあったのではないかと考えられる。

 

 だが、もちろん、それだけではすべてではない。抽象的な機能は、具体的個物に宿ってはじめて機能するものだからである。その具体的個物、つまりは皇室というものにたいする尊崇の念は、それ自体としてもう少し生々しい感情の次元で対象化されなくてはならない。

 

 ここで留意しなくてはならないのは、君主制における尊崇感情というのは、きわめて普遍的であり、ありふれたものだということである。と同時に、近代以降においては特殊に、君主制の支持基盤となる社会層(=王党派)には、どこの国でも共通した特有の視野の狭さがつきまとっているために、自国の君主にたいする自己の尊崇感情を絶対化しやすいということである。つまり、先験的になんの比較対照もしたこともないにもかかわらず、どこの国の王党派も自国の王家は「万邦無比」であるという自己陶酔的な観念に陥りがちだということである。

 

 日本においては、アフリカ的な「生き神様」信仰として、社会的な権威・権力を尊崇するという度合いが、欧米社会よりも根強く残っている面があるのは確かであろう。しかし、欧米社会においても、程度の違いはあれ、いくらでもそうした要素は残っているのも事実なのである。天皇にたいする絶対感情は、「生き神様」信仰に淵源するとしても、それと同質の絶対感情は、欧米社会においてすらも絶滅したわけではないということを看過するべきではないであろう。

 

 したがって、それぞれの国家がもってきた君主にたいする尊崇の念に、それぞれの固有の具体的な特性があるというように考えられなければならないだろう。

 

 このことをわかりやすくいえば、たしかに、アイドル(偶像)一般にたいする憧憬の念は一般化してしまえば、結局のところは、みな同じものとなってしまうということである。しかし、それにもかかわらず、個々のアイドルのファンにとっては、個別具体的なアイドルのもっている(アイドルというキャラクターの範囲内での)個性的な魅力こそが問題なのである。

 

 その意味においては、たしかに、チューダー朝、ブルボン朝、ロマノフ朝、ボナパルト朝、チベットのダライ・ラマ、等々と、日本の皇室(大和朝)との個性的な違いはおおきな問題なのである。

 

 なぜ天皇は人を惹きつけるのか。これは、循環論法のようなところがある。すべての君主制は人を惹きつけるから君主制たりうるからである。天皇制には君主制一般と区別されなければならない神秘性は特段ない。むろん、アイドル一般がそうであるのと、個々のアイドルが個性的な魅力でファンを惹きつけるのとは異なるように、日本の天皇に特有の魅力は語りうる。しかし、それはそれだけのことである。天皇にだけ格別の神秘性があるかのようにみせかけているのは、万世一系が「万邦無比」なものだという部分だけである。

 

 では、なぜ天皇家は永い間続いてきたか。それは、日本列島が異民族の支配を受けたことがないからにすぎない。唯一の例外となった米国の占領軍は、占領政策の効率性を考えて天皇制を存続させた。「謎」があるとしたらそこにしかないが、それは戦後世界史のなかではさほど謎ではない。米国にとっては、このような戦略判断は、冷戦期において第三世界の開発独裁政権を支援してきたことと同じパターンのことでしかなかったからである。

 

 異民族による社会の支配系統の断絶を経験したことがないために、天皇・朝廷は大宝律令以来、唯一の正統性をもった法的権原として、いかに有名無実なものとなっても存続してきたのであった。そして、江戸時代のように学術教養が民衆化しはじめると、天皇が法的秩序の源泉であるという知識が普及し、それと現実の幕藩体制の齟齬が、知的に気になりはじめるようになっていったのであった。

 

 つまり、知識化しはじめた社会においては、社会の構成は、現実と知識との齟齬が気になりはじめるのであり、それは遅かれ早かれ知識の側に沿うように再構成されてゆくことになるものなのである。明治維新は、黒船来航をきっかけとして、それが一挙的に進んだものであった。そして、それと同時に、摂関制・幕藩制を廃止して「王政復古」を行い、太政官制をとったが、明治二十年前後には、中国文明と絶縁(=「脱亜」)して、欧米から内閣制、議会制、憲法などを導入して、制度の西欧化を推し進めたのであった。このような急激な制度の変革を強力的に押し進めるために、天皇は中国文明からも欧米文明からも独立した超越的な権原として位置づけられていったわけである。

 

 天皇制には、謎もなければ問題性もない。法的秩序意識というものを媒介に入れると、天皇の問題はなんら謎ではなくなる。

 

 この法的秩序意識というものは、一般民衆や、左翼・右翼的な「院外団」、在野の活動家人士にはなかなか共有されていない共同幻想の要素なのである。それに対して、中間支配層として、伝統的に行政の実務に携わってきた社会層や、その周辺部分の人々にとっては、つまり、中央・地方の官吏、有力者といった中間的な支配層にとっては、これらの意識は濃厚にあったのである。(「ポストモダン」の社会になって全世界的にこの傾向も変質しつつあるということは、一つの重要な現象として指摘できるが。)

 

 伝統的な社会構造のもとでは、一般民衆や、左翼・右翼的な「院外団」、在野の活動家人士にとっては、行政の実務に携わる回路も、政治意志の表現の回路も閉ざされている。とくに東洋的な官僚制のもとでは、「民は寄らしむべし、知らしむべからず」ということが公然の原則とされてきたので、官僚機構はきわめて閉鎖的な共同体を形成している。

 

 このような特殊東洋的な伝統のもとでは、官僚機構の閉鎖的共同体の内部における政治意志の決定過程や行政実務の途中の段階で情報が外部の一般民衆に漏れると、そのこと自体で、それまでのはなしが御破算となるという奇妙なことが起こる。さらにいえば、外部の民衆や在野の勢力が要求するから、どんな合理的な要求でも即座に、そのままには実行に移されず、時間をずらして、形をゆがめて実行されるという倒錯した事態が当然のこととされるのである。(日本共産党が構造改革派を除名してから数年後に、実質的に構造改革路線に変更しながら、それについては口をぬぐっているという組織体質もまったく同じことである。)

 

 このように、アジア的な官僚機構は、官僚機構一般がもっている閉鎖性を極端化したかたちで、それを逆に荘厳化さえしている。それは全世界に存在する官僚機構が普遍的にもっている閉鎖性の中で、相対的に強力なものとしてあるのであって、完全に開かれた官僚機構などというものは原理的に構成しえない。しかし、逆に閉ざされてあることを荘厳化する官僚制は、世界で最古の歴史をもつ東洋的な官僚制の際立った特色である。

 

 このような異常な閉鎖的な体質をもっているために、アジアにおける民衆や在野勢力は、行政実務というものがどういうものか知らないために、政治意志(=権力)というものを過度に神秘化せざるをえなくなってしまうのである。それゆえに、君主制は神秘主義、非合理主義の荘厳な衣裳をまとって民衆の頭上に君臨せざるをえなくなるのである。

 

 だが、いったん、官僚機構、中間支配層の内部に頭を突っ込めば、そこにあるのは、ただの行政実務にまつわる利害関係と利害調整の錯綜の現実にすぎない。そこにあるのは、法規、規則でうごく歯車の世界だけである。法的秩序というのは、法規、規則でうごく歯車の機構のことである。それがあるから、複雑な現実の利害関係が調整されるものとして、中間支配層に意識されているもの、それが法的秩序意識である。この法的秩序の権原として最高位に位置するのが君主としての天皇である。かれらにとって天皇が尊貴なものとして意識されるのは、(自然的秩序と不可分と意識されるような)法的秩序の究極の権原として意識されるからにほかならない。

 

 ところが、アジア的な民衆や在野勢力にとっては、このような官僚機構、中間支配層の実態が不可視であるために、現実社会の苦しさ、貧しさなどの諸矛盾が、すべて煩瑣な官僚機構、中間的支配層の中間搾取と歪曲に原因があるかのようにさえみえてしまうことにもなる。にもかかわらず、膨大な人口の民衆が地べたを這いつくばる地上のはるか雲の上に、天皇は、君臨するものとして存在している。なにゆえに、そのような存在は存在するのか。その秘密を知りえない民衆や在野勢力は、神秘的な尊崇の対象としてのみ、仰ぎ見る以外には方法を知りえなかったのである。天皇制が謎めいたものとしてあらわれたのは、そのためであった。神聖天皇を恋闕し、一君万民のもとに民衆の直接的な政治意志を実現できるという夢想も、このようなアジア的な政治社会構造が必然的に随伴させる共同幻想のひとつのあり方だったのである。

 

 しかし、官僚機構、中間支配層にとっては、天皇は法的権原として尊貴な存在である。そこに謎めいたものは何もない。法的秩序が中国製の律令制度であれ、欧米製の立憲議会内閣制であれ、天皇機関説は官僚および中間支配層のいだく自然な共通観念であった。他方、神聖天皇観は行政実務や政治意思決定からまったく疎外されたアジア的な民衆や在野勢力にとっての不可避的な共同幻想であったのである。

 

 以上みてきたように、天皇にたいする尊崇感情は、絶対感情だけではない。より合理的な機能に根拠をもっている部分もある。すなわち、日本社会の安寧の源泉、より堅苦しくいえば法的秩序と倫理意識の源泉、という共同幻想である。むろん、それは全面的な事実ではありえないのであるが、法的秩序や倫理的秩序の共同幻想は自己実現的な性格をもっている。すなわち、社会の多数派がそれを共有していれば、じっさいにそのように機能するのである。

 

 したがって、天皇にたいする尊崇の念を人々が共有することが、社会的な安寧秩序の源泉となる、という直観にもとづいて、人々は天皇を尊崇し、また、それを共有しようとしない「まつろわぬ輩」には、その共有を強制しようと動機づけられるのである。このような社会的統合への規範的な社会心理のメカニズムは、日本の天皇制とムラ社会に特有のものでもなんでもなく、人間社会に普遍的なものである。

 

 ただし、天皇制そのものは、大化の改新、大宝律令以来、法的言語を論理的に声明して民衆を指導するというかたちで形成されたことは一度もなく、平安初期までの軍事力による制圧と、宗教的・文化的な象徴的権威とによって、被支配層を一方的に包み込んでしまったものでしかなかった。したがって、法的秩序の安寧のために人々が合理的な機能として天皇を指導者として選択するという考え方が前面に明確に打ち出されて、王権が正統化されてきたのではなかった。

 

 むしろ、徳川後期に意識的に言語化されたような無意識においては、そのような考え方は「漢心(からごころ)」として否定の対象とすらなってきたと考えられる。天皇は神の子孫であり、また、日本のすべての氏族の本家であるから尊いのだ、という原始・未開的な酋長の論理で、そのまま高度なアジア的法・国家制度である律令制を導入して以降も、素通りしてやってきたわけである。

 

 そのため、論理をもって天皇制を擁護するということにはならないから、直観的な本能による多数派志向だけが天皇制を再生産することにならざるをえない。すなわち、多数派が天皇を法的な安寧秩序の源泉とみとめるから、天皇は法的な安寧秩序の源泉となりつづけうるからである。

 

 それにしても、日本では、皇室崇拝をする人々以上に、むしろ天皇制反対を唱える人々に、社会的統合機能にかんする見地から日本史における天皇の存在を批判的に対象化するという視点がないのは問題である。

 

 天皇というのは、701年の大宝律令制定以来、日本列島の大部分を軍事的に制圧していた勢力が、はじめて唯一合法的な体制であることを自己宣言した古代部族連合の頂点にある存在であった。645年の大化の改新以来、というのがこの体制の自己主張であるが、これは、最近の歴史学ではあまり実効性がなかったのではないかという説が強い。じっさい、大化の改新と大宝律令の制定のあいだの半世紀ほどのあいだには、白村江における日本軍の壊滅、天智天皇による近江令の制定、壬申の乱による天武政権の誕生、飛鳥浄御原令の制定などがなされており、過渡的な形成過程という観が強い。

 

 大宝律令の制定以後、天皇は模倣的な律令制的法秩序の最高位という位置づけをもつようになった。これは、当時の、そしてまたそれ以降の日本社会の実情と、深刻なまでに構造的な偏差をはらんだものであったが、ここで忘れてはならないのは、あくまでも天皇を最高位とする律令制的な法秩序体制というものは、摂関政治の時代にも、幕府政治の時代にも、一貫して継続していたということである。

 

 そもそも、摂政関白は令外の官という奇妙なかたちで律令体制の頂点に位置したものであり、征夷大将軍はまったく律令体制の一官職であった。つまり、天皇および朝廷というのは、たんに「生き神様」のように尊崇されたわけではない。それは制度的に無知蒙昧にとどめおかれた下層民衆にとってはそうであったかもしれない。また実際、隔絶した距離におかれていた頂点と庶民の関係性においては、それ以外にはなんの意味もない存在であった。

 

 しかし、中間支配層である中央・地方の官人層や土豪層にとっては、そうした「生き神様」信仰のような非合理主義的な要素としてだけ存在したのではなかった。それは、日本列島における唯一のはかない法的秩序の最高意志決定者としてあった。そこにあるのは、具体的には、土地所有権の問題であり、官位官職の授与権限の問題だったのである。

 

 天皇の法機能的な権威が実質的なものとしてあるという状態は、南北朝時代までは明確につづいていた。だが、それ以降は勅撰集すらもだせなくなり、いわゆる皇室衰微の過程に入っることとなった。鎌倉幕府成立以降、皇室や公家の経済的基盤であった荘園は、地方の武装土豪層(=武家)に侵蝕されつづけて、ついに南北朝の争乱をへて皇室も公家も名実ともに武家の寄生的な階層に成り下がったのであった。

 

 南北朝の争乱がおさまった時代の室町三代将軍・足利義満だけが、日本史上でただ一人皇位をうかがおうとしたというのは有名な話しである。これは、皇室や公家が武家の寄食者に成り下がりったために、法的秩序においても完全に幕府と朝廷が一体化してしまい、そのことはまた、当時の日本の政治社会においては血統においても一体化したことを意味したのである。したがって、義満にしてみれば、みずからが皇位をうかがうことに法理的にも心理的にも障壁がなくなったのだと考えられる。しかし、それは逆にいえば、血縁関係の構成の例外的な状況でしかなかった。義満死後は、義満の跡継ぎによって、そのような不遜なことは否定されてしまった。

 

 応仁の乱によって足利将軍家そのものが衰退すると、大内氏など地方の守護大名に援助を受けたりしなければならないほどになった。そうした戦国争乱の過程のはてに、織田・豊臣・徳川政権がやってきた。

 

 しかし、もともと地方の土豪の出であり、守護大名の家臣のそのまた家臣程度の家柄にすぎなかった織田家や徳川家にとっては、天皇の官位官職の授与権というものは、あたかも上空の空気層のような自然の秩序のようなものとして、否定しがたいものとして、存在したに違いないのである。さらに、一代の成り上がりである秀吉にとっては、天皇・朝廷の法的権威をかりることは、軍事的覇権の確立を法的に承認させるための唯一不可欠の条件となるほかはなかったのであった。

 

 農場にはり付けられて、文字すらもほとんど縁のないままに一生を終えていった民衆たちは、盆地の山並みの外側はるかかなたにあるという都におわす天皇や朝廷などといったものは、生涯まったく無縁なものとして暮らしていたことは当然である。そこに、神や仏と差異があろうとなかろうと、そのこと自体、差異がなかったのである。

 

 他方、官人層や土豪層の子孫である戦国武将たちも、合戦に明け暮れているときには天皇や朝廷のことなどまったく眼中にないようにみえるが、じつはそれは、まったくの誤りとみなければならない。土地や領地の分捕り合戦は、かならず幕府や朝廷の権威において合法化されようとした。形骸化はしていても、やはり法的権威に決裁をもとめなければ、無法地帯のまま武装土豪層たちの争乱は、ゲームのルールのないままに永続化してしまうからである。

 

 また、戦国末期にあらわれた屈指の有力な武将たちののぞみは、上洛して将軍家の権威のもとに天下に号令することであった。将軍家の権威を認めていること自体、天皇・朝廷の官位・官職体系をみとめているのは自明の前提であった。

 

 したがって、徳川家康が天下を取った後に、林羅山が皇室を山城国の国主にしてしまえと諮問したのを、家康が取りあげなかったというのは、百戦錬磨の天下人にとって、そのような意見がまったく現実離れのした儒学者の見解としか思われなかったということを意味している。

 

 事実、徳川幕府は、厳重に禁中並公家諸法度を定め、婚姻政策を画策し、徳川家の血の入った天皇を擁立することに躍起になって、事実、二人もの天皇の擁立に成功したのであった。

 

 また、家康の孫であった水戸徳川家の光圀は、はやくも尊皇思想を抱くようになっていた。徳川後期にかけて学術教養が、公家・大名層だけのものから、しだいに下級武士、豪商豪農層にまで浸透してゆくようになったことによって、そうした尊皇思想もひろく普及してゆくようになるのも、ごく自然な流れであった。

 

 近代日本においても、内在的には、天皇制を制度として否定する論理というのは、発生したことがなかった。一説によれば、フランス革命やアメリカ革命に範をとった共和制の考え方というのも、維新政府の志士=官僚の一部のあたまを一時期よぎったこともあるらしい。

 

 だが、一つはフランスの共和制が当時はまだきわめて不安定であったこと−−第一共和制→ジャコバン独裁→執政政府・統領政府→第一帝政→ブルボン復古王政→オルレアン七月王政→第二共和制→第二帝政→パリ・コミューン→第三共和制という政体の大量の流血による転変がわずか八十年の間に繰り返されていた−−もあって、また、もちろん、アメリカはまだ日本が模範として仰ぎ見るほどの巨姿をあらわしていなかったことからしても、選択肢からははずれていった。

 

 決定的だったのは、維新直後の1871年(明治4年)に、共和制と帝政を交互に繰り返し、当時は第二帝政だったフランスが、君主制のプロイセンに普仏戦争で完敗したことであろう。

 

 明治十四年政変後の政府がドイツ帝国を模範と定めたのに対して、そのときに下野した勢力を淵源とする明治の在野の洋学紳士たちの政治思想は、英国流かフランス流かということになった。福沢諭吉、大隈重信は英国流で、一時はともに立憲改進党を設立しようとはかったほどであった。慶応大学と早稲田大学の起源は、ともに明治十四年政変で政府から追放された英国派だったわけである(他の私学にもあてはまる)。

 

 これに対して、フランス流の自由党は、中江兆民、植木枝盛らを理論的指導者として、フランス共和制の思想を主張した。これはいわば気分的な系譜においては、大正・昭和の共産党の源流のようなものである。しかし、明治の自由党が天皇制打倒を主要な目標と掲げた事実はない。また、その内在的な情念も、当時においては存在しなかったのではないか。

 

 天皇制を制度として否定する論理は共和制であるが、ここで留意すべきことは、どこの国でも論理をもって君主制から共和制に移行した国はないということである。それは、人間はいずれは死ぬに決まっているという論理をもって、だから今すぐ死んでも同じだ、という論理を即座に実行するとすれば、それは病的な徴候であるということとつながっている。

 

 いずれの国でも、君主制のもとでの深刻な失政による民衆の不満の爆発によって共和制に移行している。しかも、その場合、人口がまだ小規模であった原初の時代においては、もともと部族連合のような共和制をとっていた国が、その起源神話を「復古」するかたちで共和制を採用することがほとんどである。むろん、近代世界システムにおいては、世界史的に起源の象徴をもとめることが可能となるともいえるし、また、それ以上に、空間的に「ほとんどの国で共和制の時代ではないか」という政治意識に規定されるから、君主制がいったん危機に陥ると、共和制に移行してしまうことが自然な傾向となっている。

 

 だが、日本では、明治新政府が上昇気流からようやく高原状態に達しつつあった大正時代に、ロシア革命の影響から知識人によってレーニン・スターリン主義が導入された。レーニン・スターリン主義は内実的にはマルクス主義とはほとんど無縁なものであり、ソ連共産党の日本支部(正確な名称はコミンテルン日本支部だが)は、自国のツァーリズムが第一次大戦の泥沼化によって崩壊したあとの混乱期に、クーデターで独裁政権を樹立した手法を普遍的な革命の方法と考えるという、おそるべき独断主義におちいって、各国の社会主義政党にそれを押し付けようとした。

 

 ドイツでもイタリアでも、そのために社会主義勢力は分断されて大混乱に陥り、第一次大戦後の混乱期におけるチャンスを逃してしまったばかりか、民衆の間に共産党にたいする恐怖心を植えつけ、ファシズムの台頭を準備した。さらに、続いては、共産党以外の社会主義勢力に対しては、ファシズムと左右から挟撃するという愚かしいことを徹底的にやり続け、ついにはナチス・ドイツの誕生を許すにいたったのであった。

 

 当然ながら、日本でも事情は同じで、当時の日本の社会情勢からしてなんら大衆運動にとって優先課題でもない天皇制打倒を最優先課題に掲げ、そのために、一般社会、一般民衆の前に、ただの一度も姿をあらわすことなく、次々と一斉検挙を受けて壊滅していっただけのことであった。じっさいには戦前・戦中において、民衆の前にただの一度も姿を現したことがなかったからこそ、敗戦後、GHQの民主化政策の要員として仕立て上げられたときに、神秘的な後光がさしたといってよいほどに勘違いされることが可能となったのであった。

 

 戦後は、共産党系の歴史学者(=講座派)が歴史学界を独占して、戦前の反体制運動の歴史を捏造し、多種多様な、左右の幅における労農運動や、戦争回避のための努力といったものを、すべて反共右翼による戦争協力の隊列という色で塗りつぶしてきたのであった。また、論壇、文壇、出版社の編集者の間でも同様であった。そのため、文学、小説の世界においても、戦前史の捏造が徹底して行われたのであった。それがあまりに徹底しているので、共産党系の影響力がすっかり減衰してきた今日でも、たんに研究者がノンポリ化しただけのために、そうした捏造がそのまま複製・温存される傾向も続いている。そうしたところを突いてきたのがエセ「自由主義史観」であったといってよい。

 

 敗戦によって日本帝国は滅亡したが、アメリカ占領軍は天皇制を特殊なかたちに加工して占領政策に温存利用した。すなわち、政治意志や行政実務の究極的な権原としての地位からは除外しながら、「日本国民統合の象徴」として憲法の条文の冒頭に残したのであった。

 

 このような「国体護持」にこぎつけるために、旧軍や民間右翼は占領軍に対してゲリラ戦的な抵抗をいっさい封殺されていたのであった。その後の米軍がアフガニスタン、イラクに至るまで世界中の占領地域で経験してきた抵抗の激しさを顧みれば、日本占領時における天皇の温存利用が、どれだけコスト・パフォーマンスのよい成功例だったかがわかるというものである。

 

 しかし、戦後の日本人にとっては、天皇というものが「謎」として登場することになってしまった。天皇制が謎めいたものとして存在するという意識は、おそらく、象徴天皇制に特有なものである。幕末の人々には皇室は没落しはてた古代の王家いがいの何者でもないものとして考えられていたからこそ、担がれて王政復古をはたしのだし、王政復古後、敗戦まではイギリス型の立憲君主制の体裁をとりいれたアジア的王権として存在していた。それはタイの王室と変わるところがない。

 

 戦前の天皇は、憲法上も国家のありとあらゆる権原の最高位に位置づけられており、皇室財産も具体的なものとしてあり、謎めいたものといえば、すでに述べたてきたように、官僚機構や中間支配層が独占している行政実務や政治意志から疎外された一般民衆や在野勢力の意識の中にある神聖性ぐらいのものであった。しかし、そのようなものは、多かれ少なかれどこの国にもみられるものであり、戦前まではとくに問題意識の対象となることもなかったのであった。

 

 逆に、戦後の象徴天皇制になって、国家のありとあらゆる権原から引き剥がされた存在とされながらも、なおも「日本国民統合の象徴」として憲法第一条に規定されたことによって、説明困難な存在となってしまったのであった。しかも、このような憲法の修正には、事実上、日本人の政治意志はいっさい関与していなかった。イギリスのように、たんに王室・王党派勢力と反王党派勢力の死闘の末の妥協の産物として、立憲君主制ができたというのであれば、そこにはなんの謎めいたものも残らない。象徴天皇制というのは、概念としても急ごしらえで曖昧なものであったし、それが占領軍の外的な力によって強制的に与えられた制度であるという成立の経過によっても、何が何だかわからないものという性格を避けがたいものにしたのであった。

 

 戦前・戦中から連続して生活してきた世代の人々にとっては、天皇の制度上の形式的な変化は表面的なものでしかなく、実質的には、天皇にまつわる法的秩序意識や神聖天皇観は幻肢のような残映として存在したはずである。したがって、米軍がいなくなれば、憲法の条文を書き換えさえすれば、またもとの姿に戻りうるものであった。これは、保守派にとっても共産党にとっても、同じ感覚であった。

 

 他方、戦後にものごころがついた以降の世代にとっては、象徴天皇制はもはや不可逆的な制度としてあった。それにもかかわらず、ある世代以上には頑強な戦前復古論者が存在することに、大きなギャップを感じざるをえなかった。そこに、天皇制というものの摩訶不思議な呪縛力を感じ取らざるをえなかった。そのために、天皇制打倒という戦前共産党のスローガンが、無害無毒になった戦後社会になっても生きのこることとなったのであった。

 

 しかし、これは二重の意味で不毛なことであった。第一の意味では、戦後の象徴天皇制にたいして、打倒を叫ぶことの政治的な無意味さであった。第二の意味では、戦前の絶対天皇制においても、当時の日本社会の民衆意識においては、君主制打倒の雰囲気は皆無で、政治運動の戦略方針としてはまったく有害無益なものであったということである。どこの国でも君主制打倒は敗戦期の現象である。その意味では、敗戦直後の数年間は日本でも天皇制は危機であったが、GHQが天皇を温存利用する方針をとったので、その可能性はなくなっていたのであった。

 

 そして、戦前から生活意識の連続するかぎりにおいて、戦後の安定期においては、天皇は象徴天皇制のもやに包まれて、いっそう民衆意識においては打倒の対象とはなりえなくなっていた。

 

 したがって、戦前共産党、講座派のような意味合いにおいて、天皇制の否定を云々することは無知無学ということでしかない。しかしながら、それとはまったく別の文脈で、この問題は考えられなければならない。すなわち、日本社会においては、天皇は、律令制以来、帝国憲法の時代まで、いっかんして唯一の法的秩序意識の究極の権原として存在してきたという問題である。戦後の日本国憲法ではそれをはずした。このことは、民衆にとっては象徴天皇制として神聖天皇観と連続性を残していたが、官僚機構、中間支配層にとっては、法的秩序意識の根拠を喪失したことを意味していた。

 

 このことが、比較的地方の支配層に近い階層に生まれ育った意識の人々と、何代も前から教師などの都市的知識人層に生まれ育った人々との間での、戦後意識の差異をもたらしていたのである。

 

 「教育勅語で育った世代」(旧制世代)の最後の世代が定年退官を迎えたのが、昭和天皇崩御の直後の1990年代前半であったというのは象徴的である。事実、90年代後半に入るや高級官僚の腐敗堕落ぶりが噴出するようになる。もとから腐敗堕落していたのは事実だが、その腐敗堕落ぶりの「自社比」が飛躍的にはね上がったという問題である。

 

 守旧派が君が代、日の丸、教育勅語、はては「昭和の日」の制定などへとなびく心情の一環はここにある。一般民衆の少年少女の間のわけのわからぬ犯罪の多発よりも、高級官僚の腐敗堕落ぶりが、なによりも「アメリカに押し付けられた戦後憲法と教育基本法」の産物だという問題意識なのである。

 

これは何も、旧大蔵官僚や日銀官僚などの経済官僚にだけあてはまるはなしではない。司法・検察・警察官僚にも厚生官僚にも文部官僚にもあてはまることである。ここには二つのレベルの問題が意識されている。

 

ふつうに功利主義的な観点で考えて、社会的な安寧秩序の可能となる条件として、官僚機構、中間的支配層の法的秩序意識が必要だということが一つ。また、それだけでは身分制社会のままなので、官僚機構、中間的支配層が一般民衆へとひらかれたものとして制度変更されなくてはならないということが二つ。(これはいわゆる「近代化」の課題ですが日本では形式はともかく実質は未完。)

 

 いまの日本では、閉じたままの官僚機構が内部崩壊を起こしつつあり(平安末期の院政時代や室町末期の戦国時代に似ている)、一般民衆はアノミーのまま放り出されて社会全体として、生活条件をあらゆる面で悪化させてゆく悪循環に入ってしまっているという見方もできる。結局、管理、支配する身分(家柄)と、される一般民衆との分化が、日本社会においてふたたび鮮明なものになってきているが、「支配共同体」をひらくいうことは、そのような状況を固定化させずに流動化させることを制度的に保障するということでもある。

 

 ちなみに、このことは、経済的階級分化の問題とは、かならずしもぴったりと一致する問題ではない。経済的不平等は、たしかに日本でもふたたび広がりつつあるが、GHQの<外からの革命>のおかげで、戦後の初期設定としては人類史上類例のない平等を実現していた名残があるので、いまのところはまだ欧米先進国よりも進んだ状態にあるであろう。しかし、いわゆる官僚機構、支配共同体の開かれ方は、やはり先進諸国のなかでははるかに遅れているであろう。

 

 せめて欧米なみにひらかれた制度によって補完された官僚機構へと再編し、一般民衆も政治意志や行政実務に参加意識をもてるようになったほうが、いろいろな面での行政効率すらアップする段階になっている。

 

 しかし、律令制以来、帝国憲法以来の天皇を究極の権原とする法的秩序意識の復古によって、二十一世紀の「グローバリゼーションの時代」に生き残りを賭けようという守旧派のテーゼは、あまりにもはかない夢でしかない。それは、まさに中島みゆきの「世情」にいうところの、「変わらない夢を 流れに求めて 時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たち」でしかない。

 

 そのような矮小な次元で、天皇制の問題は、現在、再帰してきている。これに対して批判する論理もまた、古い意匠をまとった共産党、講座派的なシュプレヒコールでよいわけがない。政党に集約されるものとしてあるほかはない政治表現の焦点が、たえず天皇擁護派と反天皇派とによって不毛な論点によって掻き乱されることを解除するということは、近代日本の政治構造におけるトラウマにたいする精神分析的な緩解を行うということを意味している。

 

 重要なことは、日本社会において、官僚機構、中間支配層の法的秩序意識を、それこそ「グローバル・スタンダード」にひらかれたものとして、新築すると同時に、それが一般民衆、在野勢力にもひらかれた制度として新築されるということなのである。一般民衆、在野勢力が天皇なり権力一般を過度に神秘化したり、その反転として、無内容な反天皇、反権力の立場で実際には何ものともなりえてない空疎な現状は、そのまま大衆の広汎な無力感となってあらわれている。

 

このような現状は、日本列島という内閉的な時空間だけから考えていると、出口のない課題のように見える。しかし、視点を「グローバルに」置き換えてみればどうであろうか。世界人権宣言、国際連合憲章を究極の権原とする法的秩序意識に転換することによって、二つの課題がいっぺんに達成できてしまうという世界システムの現在の水準があるのである。そもそも日本国憲法の前文には、そのようなことが書き込まれていたのであった。

 

 そして、そのことは、マルクス・レーニン主義やキリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった排他的な諸宗教を国家原理としてしまっている国々にとっても、等しく有効な戦略プログラムとなるものとしてある。そのことに、目を見開く必要がある。

 

 そのような政治的構想力の領域においては、天皇の問題は、もはやどうでもよいこととなる。天皇は、べつに象徴天皇制の規定のまま残しておいても構わないと思う。しかし、京都御所(奈良県でもよいが)に帰還させて、「象徴」いがいの何ものでもないという規定をよりいっそうはっきりさせるべきなのである。

 

 <補論 ヘーゲル歴史哲学による君主制感情>

 ヘーゲルの歴史哲学の分類によれば、君主制感情にも類型があることになろう。

 

 アフリカ的段階では酋長ということであるが、吉本隆明の考える天皇制やダライ・ラマのもっている「生き神様」信仰はこれにあたっている。

 

 アジア的段階では、中国の皇帝=天子、エジプトのファラオが典型となる。ペルシアなどのオリエント歴代帝国の皇帝は、やや違う要素が入ってくる。また、イスラエルの指導者は、モーセのような預言者にはじまり、士師(裁判官のこと)をへて君主制の時代へと移行するというように、旧約聖書で描かれている。

 

 ギリシア段階では、アジア的な共同体の世界に個性が融和的に顕現するものとされる。これは多分にヘーゲルの美化の傾きがあるが、ギリシア世界のもっていたアジア的な要素を正しく指摘しているのだともいえる。

 

 ローマ的段階では、完全にアトムに分解された社会と、それを形式的に統合する法的秩序、それを実効的に機能させるものとしての軍事独裁的な皇帝権力、というようにとらえられている。

 

 ゲルマン的段階では、ゲルマン民族自体の発展段階が二千年の期間でとらえられながら、宗教改革以降をもってゲルマン的段階とする。それ以前は、アフリカ、アジア的な段階をへてきたものとされている。固有のゲルマン的段階とされる宗教改革以降というのは、キリスト教の神の前での平等という観念が人々に内面化され、自由な諸個人からなる社会が法的秩序を実現するものとされている。しかし、そのような理念が実現をみたのはフランス革命以降だとされている。したがって、フランス革命以前は、前ゲルマン的な諸段階の性質を持っているものとみなされていることになる。また、ヘーゲルの同時代にも、ヘーゲル以降の時代にも、実際にはそれぞれの国々に前ゲルマン的な諸要素は残存しているとみてよい。この点、ヘーゲルは、プロイセンの啓蒙専制君主制を美化せざるをえない立場にあって、きわめて不誠実で曖昧な規定をしているが、ヘーゲルの論理を一貫させるならば、イギリス的な立憲君主制か、共和制がゲルマン的な段階の典型ということになるであろう。

 

 共和制の典型となったアメリカでは、大統領をはじめとする偉い人、リーダーにたいする尊崇の念というのがあるが、これはごく自然なものであり、人工的に<構成>された、歴史が浅く、本格的な敗戦や焦土化といった国家による悲劇的な体験のない国の屈託のなさでもある。

 

 大統領制と君主制で、尊崇の念に差異がある唯一の根拠は、世襲制か否かである。大統領制は個人のリーダーシップとカリスマ性が根拠であるのに対して、世襲君主制では血統の観念が根拠である。大日本帝国憲法では、この点を徹底的に強調して、「万邦無比」性を「万世一系」においた。

 君主制にたいする尊崇の念が世襲制にあるならば、世界でもっとも古い血統である日本の皇室は、世界でもっとも尊崇に価するということになる。だが、これは、世界中のすべての王室が共有してきた願望にすぎず、ヨーロッパの王室ではアダムとイブに遡る系図づくりが熱心に行われたという。200385

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