田中清玄と安保全学連問題の実像 資料増補by 高杉公望)

 田中清玄については、日本共産党によるデマ・中傷によって「極右」などという実像とまったくかけ離れたレッテルが独り歩きしてきた。そのため、田中清玄から資金カンパを受けた安保全学連についても、それが何事かであるかのような無意味な囁きが再生産され続けてきた。

 じっさいには田中は、戦前の一時期、日本共産党の委員長を経験したのち、転向し紆余曲折を経て土建業者となったにすぎない。また、その転向後の政治思想的な位置は、リベラル右派といったところであった。リベラル右派の立場から、反岸信介闘争の資金援助を全学連に対して行ったというのが偽らぬところであった。

じっさい、田中が親交のあった財界の長老・松永安左エ門は、福沢諭吉の直弟子のリベラリストであり、戦後唯一、言葉通りに自由民主主義的な総理大臣であった石橋湛山の擁立に動いた人物であった。また、田中の親交の国際的なスケールの大きさは驚くべきものであったが、新自由主義の教祖であるハイエクがノーベル賞を受賞した際のパーティに家族で招待されたというほどの深い親交を結んでもいた。このハイエクと今西錦司の対談をコーディネートしたのも田中であった。

 ようするに、田中清玄という人物は、きわめて若い時期に共産党委員長を一時期つとめただけあって、異常に高い知的能力をもちあわせ、国際的な学者たちとも親交の深かった、そういう土建業者だったのである。

戦後保守政治の中で、田中清玄が「黒幕」として動いたとしたら――むろん、それは多分に虚像であろうが――、それは反岸勢力の「黒幕」としてであった。もっとも、日共や革共同のような超教条主義的な「左翼」にとっては、自民党のハト派とタカ派の違いなどはどうでもよかったのかもしれない。

ともかく思うことは、どうしてこうも日本共産党によるデマ、捏造、デッチ上げだけは堂々と罷り通り続けるのであろうか、ということである。そもそも、昭和初期の歴史イメージのかなりの部分が、日共系の歴史家や小説家たちによる捏造の産物だということは、今日ではまったく明らかにされていることである。(たとえば、坂野潤治(千葉大学法経学部教授(東京大学名誉教授))『日本政治「失敗」の研究 ─中途半端好みの国民の行方』光芒社、参照。)

 島成郎が田中清玄にも資金カンパの要請することを思いつくきっかけとなったのは、19591127日の全学連による反安保の国会正門突入闘争に対するごうごうたる世論の非難の中で、『文藝春秋』に寄せられた田中清玄の文章によるものだった。それは、三十年前の若き日の自分の過ちを見るような愛情のこめられた全学連批判の文章であった。それを実際に読んでみて、田中清玄と安保全学連の関係なるものについて、冷静に考えてみる必要があるであろう。以下に、それを引用しておく。(2003418日)

 

 田中清玄「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」、『文藝春秋』19601月号、pp.114-121

  光祥建設株式会社社長、元日本共産党中央委員 昭和4年東大文学部中退

  官憲殺傷四十八件

 全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心して居ると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、一九に四年=一九二七年、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和三年(一九二八年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。

 諸君が今回組織した国会デモを、マスコミは一斉に叩き、世論も亦国を挙げて非難した。曰く「赤いカミナリ族のハネ上がりだ」曰く「極左冒険主義の暴走だ」曰く「トロツキズムのブランキスト的逸脱だ」等々と。社会党はおろか共産党すらもが、デモへの種を蒔いた自分たちの先導にはソシラヌ顔で諸君を攻撃する事に依って、自分の責任を回避している。

 しかし、斯様な非難を放った丈では、国会デモ事件の本質的な批判と全学連運動の今後の在り方に対する問題の解決には少しもならない。国会デモ事件は単に今日の左翼的学生運動の表面に表れた一現象に過ぎない。問題はこのデモを惹き起こした君達共産主義者同盟、つまり新共産党とその指導下に立つ全学連の指導方針、並に君等の根本的な世界観に在るのだ。

 今更申す迄もない事だが、自分には諸君を「極左冒険主義的ハネ上がり」であるなぞと、世論の尻馬に乗って極めつける丈の資格は全く無い。嘗つて、自分等の突っ走った、昭和五年の共産党の武装、和歌浦の党中央本部と警官隊との乱射事件、並びに川崎市メーデー武装デモ、仮国会議事堂焼き討ち計画等々数々の武装行動と、官憲殺傷四十八件にも上るテロ行動を顧みれば、とてもおこがましくて諸君等に非難を浴びせる事などは到底出来ない。

 ただ自分の諸君等に希求してやまないのは、先ず諸君等の今回のデモ闘争とその根底をなす全学連の闘争方針を真に自己批判し、次に諸君等の唯一の理論的武器であるマルクス=レーニン主義をも、進歩してやまない世界情勢と二十世紀中期の人類が持つ理論物理学・生成化学等、現在の偉大な諸学問の成果に照応させつつ、客観的に、徹底的に糾明して人類の新しき行動指針を集大成して貰いたいという事だ。

 

  学生運動の限界

 国会デモ後、諸君は口を揃えてマスコミに発表して曰く、「吾々の勝利だ、資本主義に一撃を与えた」(葉山君)、「全学連が、此のデモで労働者から孤立したというのは誤りで、むしろ初めて労働者の支持と信頼を得たと思う」(唐牛君)、「吾々の国会デモは、労働者に蹶起を促した」(清水君)と。以上いずれも、諸君は、労働者大衆を指導し得て彼等大衆に支持されている革命家かの様に自分自身を思い込んでいる。

 甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君等共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君等が自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君等の自惚れだ。君等のデモ闘争を支持している組合員は、せいぜい嘗つての学生運動から現在では組合の書記に転出しているインテリ連中か、或いは此の連中の感化を受けた一握りのインテリ化した労働組合マンだけだ。

 君等は、口を開けば労働者階級と云うが、諸君は本当に労働者大衆と云うものを、具体的に生活の裡で知っているのか? 昭和二年再建された第二次日本共産党が三・一五の検挙で弾圧される前後、党員が未だ一○○名余りの頃、自分は党の組織者として、自分から進んで、帝政ロシアのナロードニキのヴォ=ナロードの気持をロマンチックに想像しながら、党細胞組織のために、先ず浅野ドック、次に横浜ドック(現三菱重工)に定期工として入り込んだ。そして製罐現場の大ハンマー振りをやらされ、最初のうちはからだの骨ぼねがバラバラになる程の痛みを歯を食い縛って頑張り抜き、造船工になりきることにつとめたのである。

 そして初めの頃は自分をシロウトと見て、馬鹿にして全然相手にしてくれなかった労働者達の信頼を徐々にかちとり、年月をかけて党細胞の組織と組合の急進化に成功した経験を持って居るが、此の時、自分は初めて頭の中でマルクス主義的に考えて幻想を創り出していた労働者階級[プロレタリヤート]と現実に生きている労働者階級というものが、如何に違っているかを如実に知って愕然とした。之れが東大新人会から入党して、一かどの革命家気取りであった自分に対する最初の打撃であり、最初の幻影喪失でもあった。

 君等の中の何人の人々が、革命家としての立場から、労働者として工場に入り込んで、労働者の生きてる実体を知り、且労働者階級のために働いているであろうか!

 労働の経験もない。而も親のすねを齧っている君等に一体労働者大衆の心理と生活とか判る筈がない。

 君等は自分の頭の中で革命的な労働者階級[プロレタリヤート]という幻影を、マルクスの誤謬に従って、つくり上げて、これと現実に生活している労働者階級とを思い違いして、一生懸命に幻想にしがみついてる丈だ。

 

  唐牛君の母と私の母と

 自分は全学連委員長唐牛君に関する記事を読んで想わず目を瞠った。唐牛君も自分と同じ函館で成長して居るではないか。母一人子一人と云う唐牛君の家庭も亦全く自分と同じ家庭条件だ。

 その唐牛君が故郷の湯の川に独り居る母に健康を案じた手紙を送っているとの条を読んで、自分は、自分の為に自殺した母のことをゆくりなくも想い浮かべた。自分は唐牛君の様に母想いの優しい優れた性情の持ち主ではなかった。

 昭和二年末入党以来一切の音信を母と絶って地下にもぐり、所謂職業的革命家として前記の様に京浜の工場に潜入したのだ。爾来二年有余、或いは海外に、或いは国内を転々とする小生の消息を母は知る由もなかった。

 昭和五年二月五日、自分の母は、此の自分の「良き日本人たらん事を」念望して自らの手で自らの生命を絶った。唐牛君も亦、三十年前の小生同様「能力さえ許せば、本当の職業的革命家になる積りだ」と自己の将来を語っている。

 私は茲で唐牛君のみならず、島、香山、森田、葉山、清水君等、共産主義者同盟の諸君に訊ねたい。それは他でもない。君等は本気になって「学生と革命的インテリが中核になり、革命の根幹である労働者階級がゼネストを起こす。……新中間層ホワイトカラーとの統一戦線は否定する。当然吾々も武装し政権を奪取する」と革命のプログラムを考え、その為の指導的革命政党が共産主義者同盟と考えて行動して居るのかという事だ。

 若し、諸君が斯様に考えて居るのならば、「それは日本に於ても、世界中何処に於いても絶対に実現する条件を備えていない。小ブルジョア的革命論だから、左様な歯の浮く様な子供じみた革命闘争は即刻おやめなさい」と私は勧告し、且つ、共産主義者同盟の即時解体を御勧めする。

 君たち学生がいくら革命的な理屈を並べても第一労働者階級は耳も傾けない事と、学生運動の様な温室の闘争では真の革命家は育ち上がらないと云う事を申し上げたい。ついで、諸君の提唱する革命のプログラムは、学生とインテリゲンチャーの役割りを不当に重要視する点に於いて一九二五=二七(大正十四=昭和二年)の福本イズムと全く同一範疇のものであることも。

 

  未来はインテリのもの

 自分は、三十年前、学生運動の為に東大に入学したのではなかった。自分は社会主義に入門した大正十三年(一九二四年)既に故鈴木治亮(日共党員・三・一五逮捕・病死)や沼山松蔵氏(三・一五当時の日共北海道委員・現クロレラ会社重役)と北海道に於ける最初の労働組合函館合同労働組合を創設し、翌大正十四年(一九二五)には沼山氏と協力して札幌合同労働組合を創立し、同年秋、現日共青森県委員長大沢久明氏や社会党県議岩淵謙三氏と最初の農民組合を青森県黒石に設立した。

 主として農民運動と労働組合運動に奔走するかたわら、旧制弘前高校の社会科学研究会を確立して之れを学生社会科学連合会に加入せしめた。

 一時は全校生四百五十名中約三百名迄を会員に獲得して猛威をふるったものであった。従って高校三年の時の登校日数は六十日位のものであって危く放校されるところであったが、学校当局は学生ストを危惧して無事卒業させてくれた。

 東大に入学したのも、一つは母を安心させる為と東京に出て本当の革命運動を工場内に於いて体験する事に依って職業的な革命家として自分を鍛え、この生命を日本の労働者階級と農民大衆等勤労国民に献げつくすという覚悟からであった。

 それ故、東大新人会にも当然入会し、亀井勝一郎・現仙台市長島野武・大山岩雄・代議士佐多忠隆・田中稔男代議士(彼は当時の新人会幹事長)・武田麟太郎・藤沢恒夫等と同じ釜の飯を喰ったが、学生運動を今更やるのが目的でないので、共産党の手ののびるにつれ、新人会の総会に出席しても発言する事を一切禁ぜられ、亦新人会の幹部の位置に就く事も禁じられた。間もなく京浜地区に党オルグとして工場に潜入する事になってからは一切学生運動と縁を切って共産党運動一本に専念した。

 だが、極右翼団体七生社(当時の幹部現社会党左派代議士穂積七郎・同五一等々)との衝突には駆り出されて京浜工場地帯からやって来ては当時の極右翼の模範的闘士であった穂積兄弟、特に現代議士の七郎とは殴り合いの火花を散らした。彼が三十年後、社会党の而も容共的松本治一郎門下の極左派代議士になろうとは夢にも考えられなかった。特に戦時中は翼賛青年団の大幹部であった丈になおさらである。

 自分等は、はっきり言って、学生運動を軽蔑して居た位である。従って島君や唐牛君の共産主義者同盟的革命理論には如何にしても賛成が出来ない。

 百五十年前の欧羅巴の諸学問の集大成であるマルクス主義は、原子力時代の今日、凡ゆる学問が飛躍的な発展を遂げた今日、亦世界が資本主義が異質的な発展を遂げた今日、古いマルクス主義を信条としたならば、政治も経済も何一つとして為し得ないのである。

 現にノン・アルバイトの工場が出来て、労働価値説=剰余価値説というマルクス学説の根底を打ちくだいて居るではないか。

 従って、労働価値説と剰余価値説に立つプロレタリア革命とその独裁の思想も亦成立し得なくなって居るのだ。他方資本主義も質的変化を遂げて居る。

 ソ連に於いてもアメリカに於いても、政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである。来るべき世界はプロレタリアートのものではなくて、インテリゲンチャーのものだ。

 全学連の諸君は、何等の革命的意義もないエネルギーの無駄な消費であるデモ闘争をやめて、変動し、進展してやむ事を知らぬ世界と人類の持つ一切のものの究明にそのエネルギーを使用していただきたい。

 

  増補資料

森田実『戦後左翼の秘密』潮文社、1980年、pp.281-284より

西部邁『六○年安保 センチメンタル・ジャーニー』文芸春秋、1986年、より

島成郎「唐牛健太郎の壮烈な戦死」1984年5月)、城山三郎編『「男の生き方」四選 下』文春文庫、一九九五年、所収、より

東原吉伸「追想の中の『二人の改革者』」

島成郎記念文集刊行会・編『島成郎と六○年安保の時代2 六○年安保とブント(共産主義者同盟)を読む』より

田中清玄(インタビュアー大須賀瑞夫)『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、pp.171-175

『吉本隆明が語る戦後五五年H 天皇制と日本人』三交社、2002年、pp.85-87、より

吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」、『日本読書新聞』1963,3,25、『吉本隆明全著作集 13』所収、pp.121-130、より

 

森田実『戦後左翼の秘密』には、かなり詳しく森田氏側の事情説明がなされている。日共系の女性記者とおぼしき人物にはめられて、隠し録音された発言を放送され、抗議したら恫喝されたことを記している。

ただし、森田実や西部邁は、田中清玄に対する評価は否定的である。彼らのように自民党ハト派よりももっと右に行ってしまった旧ブント系の評論家が否定的に評価し、風雲児の風来坊として全うした島、唐牛、東原らが高く評価して交流を続けていたのは面白いことではないだろうか。

『田中清玄自伝』での、田中自身による証言も田中の立場からみた60年安保当時の政治情勢がうかがえて興味深い。また、同書に付されたインタビュアーの政治記者・大須賀瑞夫による解題では、長期間にわたり直接にインタビューを続けた立場から、世間での「右翼の大物」という虚像について感慨が述べられている。

 なお、吉本隆明は、田中清玄の実像そのものについては情報通ぶることなく、あくまでも世間の評判通りの「右翼の大物」だったとして、そうした人物から闘争資金のいくばくかのカンパを受けたからといってそれがどうしたのだ、という問題を提起している。また、「反安保闘争の悪煽動について」は、田中清玄の実像の問題とははなれて、戦前、戦後の日本社会のトータルな変容と、そこにおける「転向」の問題に関して、鋭い考察がなされたものである。

 

森田実『戦後左翼の秘密』潮文社、1980年、pp.281-284より

 六○年安保から一、二年後のことです。唐牛健太郎が当時の右翼の大物といわれていた田中清玄の世話になり、安保闘争で資金援助を受けたことを、TBSがセンセーショナルに放送したのです。この放送の中で、私の談話が有力な資料として使われました。この原因の一つは私の軽率さにありました。迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました。この経過を話しましょう。

 六○年安保から一、二年後のある日、古くからの知人の共同通信社の記者から電話があり「同僚の村岡記者に会ってくれ」というのです。電話してきた記者は東大の一年先輩で大学時代からの知り合いでした。こんな関係でしたから、私はまさかワナが仕掛けられているとは思わなかったのです。

 しばらくして村岡記者が訪ねてきました。季節は冬でした。家族がお客をコタツのある居間に招き入れました。この時私は別の部屋にいて、村岡記者が部屋に入った頃を見計らって居間に行きますと、もう一人女性記者がいます。村岡記者は「仲間です。一緒にきました」というだけで、ちゃんと紹介しません。女性記者も軽く会釈するだけで名乗りません。

 こんな時、普通なら警戒するのですが、その時、生まれて間もない長男を抱いていましたので、あまり気にもとめなかったのです。あとで、この記者が吉永記者だと知りました。

 私は村岡記者の質問に答えて、かなり気楽に答えていました。一時間ほどのインタビューが終わって、二人の記者が帰るとき、コタツの中からテープレコーダーが出されました。うかつなことに、私はこの時まで自分の談話が録音されていることに気付かなかったのです。それでも、私は相手がTBSの放送記者であることを知りません。念のため一言、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」といいました。相手はうなずきました。

 しばらくして「ゆがんだ青春」がTBSラジオで放送され、大反響が起きました。新聞や雑誌が、これを次々に記事にし、六○年安保闘争の裏側でひどい腐敗が起きていたというイメージづくりが行われました。共産党は鬼の首でもとったように「森田は腐敗分子だ」と書いていました。いつのまにか、私が田中清玄から金をもらったように書く新聞・雑誌まででてきました。私のところには、あらゆる方面から抗議の電話や手紙が来ました。

 その中でとくに印象に残っているのは、執拗な脅迫電話です。関西弁で「オレは関西のヤクザだが、オマエは許しておけない。必ずヤッツケてやるから、身辺を気をつけろ」と繰り返し電話をかけてくるのです。(中略)

 ある日の昼頃「これからオマエの家に行く。首を洗って待ってな」という電話がありました。いつもの通りの脅迫電話かと思っていると、三、四時間ほど経って「今東京へ着いた。これからオマエをバラしにゆく」という電話です。私は、この電話を受けた時、これはひょっとすると来るかもしれないな、という気がしてきました。

 私には脅迫の主が、ほぼわかっていました。いくら関西弁でごまかしても声の質はかくせません。私の村岡記者への談話によって最も傷ついた人間−−唐牛健太郎と彼の仲間−−であることは、ほぼわかっていました。(中略)

 その日、脅迫者が来るのを私は待っていました。だが、午前一時になってもきません。二時になってもきません。もう来ないのかと思った時です。門につけたベルがけたたましく鳴り出しました。十分、二十分と鳴りつづけます。(中略)

 私は一度は結着をつけなければならないと考え、門をあけようとすると、女房がヤクザはドスをもっていると大変だからといって、警察に電話しようとしています。やっとのことでこれを止め、その代わりに防御用にゴルフクラブをもって出ることにし、門の内側で、何回か振り下ろす練習をしてから門のカギをあけました。その時です。脅迫者が逃げ出す足音がきこえました。私が門の内側でゴルフクラブを振り下ろす練習を見ていたのでしょう。足音は二、三人のものでした。

 脅迫者は、近くの道の角から私の方をうかがっていたようでした。私は門の前に立って、二十分ほど、ゴルフクラブでデモンストレーションをしつづけました。

 脅迫電話はこれを契機になくなりましたが、ここには、新左翼の頽廃した姿が示されていると思います。つまり暴力主義です。尚、最近、酒の席で島自身からきいたことですが、この中には島成郎もいたということでした。

 

西部邁『六○年安保 センチメンタル・ジャーニー』文芸春秋、1986年、より

 すでにのべたように、私は庶子的行動にたいして、寛大というよりも好意的であるから、ブントや唐牛が切羽詰まって、少なくとも詰まったと思って、清玄から金をもらったのだろうとしか思わない。しかし、近年になって何度か田中清玄という人と面談してみた結果、自分には折り合えないひとだということがわかった。だから、想像してみるだけだが、もし自分がブントの資金担当者だったら、ちょっと違う行動をとったかも知れないと考えたりする。また、ブントにせよ唐牛にせよ、切羽詰まったと思うのが早すぎたかも知れないと思う。(p.69

 

 東原は六○年六月の末、つまり安保闘争が終わるとすぐ、「金助町」を去った。金助町というのは本郷にある町名で、全学連書記局の俗称である。そのあと、「半年は新宿あたりで荒れはてて」、大阪へ向かった。暴力団がらみでつぶれかかっていたパチンコ屋の建て直しに一年ばかり協力したが、そこにもおれなくなり、名古屋にあった田中清玄の関係する土建会社に会計係として二年ほど勤めた。「清玄には悪かったが、トンネル(横流し)に熱中し、会社をつぶしてしまった」とのことである。(p.112

 

 島成郎「唐牛健太郎の壮烈な戦死」(19845月)

城山三郎編『「男の生き方」四○選 下』文春文庫、一九九五年、所収、より

 

 後日、スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません。まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。それで財務担当者に「お前が悪者になれ」といって、どこからでもいいから金を集めろ、という具合だった。例の森脇将光からも取ってきましたよ。もっとも森脇の場合はガッチリ証文を書かされて、あとで都学連の指導者の兄さんの店まで担保で差し押さえられましたけど。

 で、その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、「お、これは金になるかもしらん」といって、出掛けていったわけです。こっちはアッケラカンとしたものでしたが、かえって田中氏の周囲の方が、最初は何だか気味悪がったらしいです。

 会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで「オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた」としきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです。

 山口組の田岡氏とのことも、田中氏の繋がりです。田岡という人もなかなかの人物で、私達はそれで好きになったんだけど、児玉誉士夫が六○年安保のとき、ヤクザを全部集めて右翼連合を作ったんですね。稲川会はじめ皆入ったが、田岡氏だけは「極道は極道で、政治に手を出すのは下の下だ」といって、絶対に参加しなかった。(pp.266-267

 

東原吉伸「追想の中の『二人の改革者』」

島成郎記念文集刊行会・編『島成郎と六○年安保の時代2 六○年安保とブント(共産主義者同盟)を読む』より

 

 1938年生まれ。57年早稲田大学入学。一年生後半より日本共産党早大細胞LC。当時早大細胞会議では、党中央から津島青対部長などが説得にくるが、党中央の方針は圧倒的多数で否決することが続いていた。全学連書記次長。現在、「剪定滓・伐採根などの有機物の堆肥製造」などを行う環境修復事業を主宰。

 

 日常の財政活動はというと、全学連の、あるいはブントの活動に関する、また安保改定や岸内閣に関する新聞や雑誌の記事をチェックし、これらに対して、こちらに肯定的な意見や反応を嗅ぎ取ると、それが誰であろうと面会をもとめた。自民党代議士から俳優などの舞台役者の類、文化人、銀行家、宗教家、商業者、病院経営者、任侠の徒等々、雑多を極めていた。資金集めで大事なことは、当然ではあるがその必要性を詳しく説明することに尽きる。これらの人士に対して、全学連の闘いの目標、学生が立ち上がらねばならない必要性、岸内閣の性格等々について、懇切丁寧に説明することだった。

 みんな事情を知りたがっていた。資金調達の目的を少し踏み込みすぎて、新宿商店連合会青年部のように、数百名のデモ隊を組織してしまうことにもなった。六・一五当夜国会前の全学連主流派のデモに合流したから大騒ぎになった。でかいパープルの旗に「民族社会党」と染め抜かれていたから、学生は右翼と間違え、小競り合いになるという笑えないことにもなった。

 

 安保の約三年後に、私がごく軽い気持ちで、田中清玄や多くの人から資金援助を受けたことを漏らしてしまった。そのためマスコミの好餌となったことがあった。私があえて事実を公表したのは、それは資金援助をして頂いた方々へのせめてもの感謝とお礼の意味であったし、今でも「当然のことをした」までだと思っている。もちろんそのやり方は、唐突で、若気の至りというか、軽率であったことは否めない。ディスクローズしたことと時期は私の独断ではあった。

 島は大騒ぎになった後でも、陰に陽に私を支えてくれた。その渦中でもあったが、私の叔母が突然死したとき、二十人近い人間を派遣してくれて、落合斎場で葬式を仕切ってくれたりもした。

 

 島成郎と田中清玄との交友関係について、今まで語られていないので、その二人の社会改革者の出会いや、その後の交流など書き留めておきたいと思う。

 既に田中清玄とは、資金の面で関係が成立していたが、ブント書記長との交流となると対外・対内的に慎重にも慎重な扱いが必要であった。

 当時、田中清玄といえば、本人は不本意だろうが、反響右翼の大物という見方が定着していた。全学連サイドとしては、同盟書記局の島が、右翼の大物と関係を持つこと自体が冒険であり、大変な決断を必要とした。

 

 一方、田中清玄はというと、私の知るかぎり、当時、安保闘争の最中でも、シンガポール独立やタイ国皇太子(現国王)の擁立を実現するため、日本をたびたび留守にしていた。日本でのマスコミの風評とは異なり、彼はこれらの地域では、「トーキョータイガー」と呼ばれた革命家であり、中東から東南アジア諸国の独立のために命をかけた熱血漢だった。

 国内的には六○年安保が吹き荒れていたが、外の世界では、まさに地球的規模で、多くの被植民地諸国における独立闘争・革命の嵐が吹き荒れ、これらの国々が次々と宗主国から独立を獲得していた時期に当たっていた。

 また彼は、戦後日本に温存された守旧勢力と一切の妥協をせず、それに挑戦状をたたきつけ、若き企業家、政治家、学者など、新興勢力を糾合して新しい、強力な日本産業国家の再建に尽力していた。

 

 田中清玄という人物のひとつの特徴は、どのような組織・機関であっても必ずそのトップとさしで面談することを徹底していた人物であった。例をあげると切りがないが、たとえば、アラブ首長国連邦、EUの創設者のオットー・ハプスブルク家、中国文化大革命後のトウ小平、インドネシアのスハルト、シンガポールのリー・クワン・ユーといった生涯の盟友と呼ばれる人々がいた。

 彼は、若き革命家・島に対しても、後の唐牛健太郎に対しても、同様にトップリーダーとして処遇した。会うと挨拶もそこそこ、いきなりソ連論、日共論、ロシア・米国などの大国にたいする警戒論等々、具体的で、田中清玄にとっては武装共産党委員長時代や十数年に渉る獄中生活、コミンテルンとの死闘といった経験を踏まえた実践論として説得力があった。島も日本共産党東京都委員会のエリートであった時期からの、組織内の不毛の論争と分派闘争を経ているので、議論は結構かみ合い、延々と続いた。

 それ以来、二人はよく会った。お互い話題には事欠かなかった。いうまでもなく島のステージは、一歩そこを出れば安保反対運動の渦中であり、同時に彼は、革命的学生・労働者の精神的支柱であり、ヒーローだった。(中略)しかし彼は、やりくりして、不思議にこの会合のスケジュールは確保した。

 

 田中清玄は、寸暇を惜しむことなく、多くの業界人を島に引き合わせた。必ず業界のドンだった。

 電力業界でいえば、電力の鬼といわれた松永安左右衛門といった具合に、各業界のトップ。製鉄業、製紙、石油(もちろん電力も)、新聞をはじめとした報道機関、多くの保守党政治家たち、治安関連でいえば野村検事正のような司法を代表する人士、平林たい子や福田恒存といった数々の文化人、臨済宗の老師など宗教界の面々、それに東大新人会や武装共産党時代以来、地下組織を一貫して支援しつづけた、たとえば、京大の桑原武夫や今西錦司といった学者の面々がいた。

 さらに極めつけは、関西の港湾のドンであり、全国制覇にのりだす前の若き山口組三代目田岡和夫や当時横浜港湾のドンも含まれていた。スターリンの粛清から身を守るため逃避行をつづけていたソ連共産党極東ゲーペーウー代表だった高谷覚蔵や、外国人でいえば、生涯の友であった神聖ローマ帝国の継承者でありヨーロッパ共同体の提唱者であるハプスブルク家党首、それに経済学者のハイエク教授なども含まれていた。(中略)会合の場所は、相手の地位と都合もあり、大概の場合、赤坂、築地、渋谷などの料亭が選ばれていた。

 

 若き革命家は、これらの人士と対座するとき、何時いかなるときも、あの汗くさい普段着のシャツ姿で平静に対応した。彼は、「保守反動」とか「安保条約改定で地歩を築こうとしている日本の独占資本家やその手先」と、こき下ろすべきはずの相手に対しても、相手の人生観や直面している日本の現状認識、また相手からほとばしり出るエネルギーや、将来の日本にかけるロマンなどを、大変興味を持って吸収・拝聴していた。

 (中略)島は、機会があれば、これらの人々と再度酒肴をともにした。私などは、あるとき製鉄業界のドンが親しみを込めて「おれのかばんもちをしろ」と暗に好意で自分の秘書課にきて仕事をしろと誘ってくれているのに、「独占資本の手先にはならない」とすかさず(左翼学生からみて)優等生のような返答をしたことを覚えている。まだ支配階級への旺盛な敵対意識があった。

 こんなトキ、島は、立場上から双方に距離を置きながらも、始終ニコニコ顔で頷いていた。いずれにしても、清濁併せ呑むような対応ぶりの中に、時代の責任を負っている島を感じた。

 

 蛇足が許されるならば、安保挫折後まもなくのころ、あの当時、些細なことであるが一時身を隠す必要があり、大変お世話になった山口組に一時身を寄せることになったときも、山口組の大阪戦争直後の大阪ミナミまでわざわざ出向き、直接「彼をよろしく頼む」と仁義(?)をきってくれたのも、ほかならぬ島であった。彼はこのように、生真面目で、人から見ればとても酔狂とうつる一面も持っていた。

 

田中清玄(インタビュアー大須賀瑞夫)『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、pp.171-175

  −−田中さんといえば、六○年安保で全学連幹部に資金提供をしていた印象が強烈です。その理由を話してください。

 当時の左翼勢力をぶち割ってやれと思った。あの学生のエネルギーが、共産党の下へまとまったら、えらいことになりますからね。一番手っとり早いのは、内部対立ですよ。マルクス主義の矛盾はみんな感じていましたから。ロシアの威光をかさにきてやる者、それから共産主義の欠陥をくみ取れない連中、進歩的文化心ではやりの馬に乗った人間、彼等にはそういういろんな雑多な要素があるんです。しかも反代々木(反日共)で反モスクワである点が重要だ。彼等を一人前にしてやれと考えた。反モスクワ、反代々木の勢力として結集できる者は結集し、何名か指導者を教育してやろうというので、全学連主流派への接触を始めた。もう一つは、岸内閣をぶっ潰さなければならないと思った。

 

  −−しかし、全学連指導部の意識は日本の革命だし、立場は正反対だったのではありませんか。

 革命運動はいいんだ。帝国主義反対というのが、全学連のスローガンだった。しかし、帝国主義打倒というのを、アメリカにだけぶっつけるのは、片手落ちじゃないかと僕は言った。「ソ連のスターリン大帝国主義、専制政治はどうしたんだ」とね。そうしたら、そうだと。それで、これは脈があるなと思って、資金も提供し、話もした。私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸、篠原浩一郎もだ。島にあってくれということなんですね。

 

  −−当時の報道ではかなりの資金が渡されたといわれていますが。

 機会あるたびに、財布をはたいてやっていました。いろんなルートで。まあいいじゃないですか。それはそれで。

 

  −−唐牛健太郎が函館出身だったというのも、付き合いができた理由ですか。

 それが一番大きい。知らなかった、唐牛というのは。島が唐牛に全学連の委員長をやらそうと思うが、どうだろうかって。「あなたと同じ函館の高校で、今は北大だ」と言ってきた。それで僕は「君がいいと思ったら、やったらいいじゃないか」と答えた。島の決断です。私に接近してきたのも、彼の決断だった。島がいなかったら、私と全学連の関係はできなかったでしょう。本当は全学連委員長というのは、東大に決まっているんですよ。それを破って、京大でもない、北大の、しかも理論家でもない行動派の唐牛を持ってきた。唐牛は直感力では、天才ですね。しかし、組織力ということなら島です。先見性もね。決して彼はスターリンや宮本顕治のような独裁者にはならない男です。一つの運動が終わると去っていって、また次の運動を組織していく、そういう点で天性のものを持っている。沖縄での精神病院での地域医療活動だってそうでしょう。まさに社会的実践そのものです。彼はいい男ですよ。時々ここへもポカッ、ポカッと来ますよ。去る者は追わず、来るものは拒まずです。

 

  −−具体的にはどんな事をされたのですか。

 全学連といったって、最初はただわあーと集まってくるだけで、戦い方を知らん。それでこっちは空手の連中を集めて、突き、蹴るの基本から訓練だ。僕の秘書だった藤本勇君が日大の空手部のキャプテンで、何度も全国制覇を成し遂げた実績を持っていた。彼をボスにして軽井沢あたりで訓練をさせたんだ。藤本君がデモに行くと、一人で十人ぐらい軽く投げ飛ばしてしまう。「お前は右翼のくせに左翼に荷担してなんだ」なんて、だいぶ言われていたけど、「なにを言ってやがる。貴様らは岸や児玉の手先じゃねえか」って言ってね。デモをやると右翼が暴れ込んでくるんだ。それを死なない程度に痛めつけろ、殺すまではするなと。それでしまいには右翼の連中も、あいつらにはかなわんということになった。

 

  −−六○安保のデモ隊から岸首相を守るため、自民党の福田篤泰代議士の選挙区の三多摩地方から、威勢のいい青年たちを動員したと聞いたことがありますが。

 そんなもの来たってちっとも怖いことなどなかった。しかし、こっちは反帝国主義、反米だけではどうしても今一つ盛り上がらない。それて取り上げたのが反岸だった。それをやったのは島です。全学連の内部では、「国内問題に矮小化しすぎる」「国際性がない」「革命性が失われる」などと小理屈をこねるのもいたが、困るのは自民党、岸一派だけだ。遠慮しないでやれと言ってやった。

 水道橋の宿屋で待機していて、田舎から送られてくる部隊を集めては、左翼と一緒に戦えと話してやった。彼等は「なんだ、今まで仲間だったのと戦うのか」っていうから、「そうだ、極右である岸・児玉一派と戦うんだ。大義、親を滅ぼした」なんて言ってね。あのエネルギーを爆発させることができたのは、何といっても戦いに反岸を盛り込んだことだし、それをやり切ったのは島や唐牛でした。彼等がいなければ、警視庁だけでは、岸・児玉一派にやられてしまっていたでしょう。原文兵衛警視総監が一番理解してくれた。

 

  −−あの時、岸首相は自衛隊を出動させようとしましたよね。

 それをきっぱりと断ったのが赤城防衛庁長官と杉田一次陸上幕僚長だった。えらかったねえ。岸がうるさく迫ったんだが、二人ともはねつけた。杉田陸幕長は戦前、東久邇宮付きの武官で、米国留学の経験もあり、あんなことで兵を出したらどんな事になるか、よく分かっていた。

 

  −−なぜ黒幕なんて言われたんでしょうか。

 さあ、私には分かりませんが、マスコミが流したことは確かです。戦後ある時期まで、新聞紙はもちろん、出版社などにもずいぶん日本共産党の秘密党員やシンパがおりましたからね。それから私は岸信介や児玉誉士夫らと徹底的に戦いましたが、かれらもまたマスコミにはかなりの影響力をもっていました。彼等の双方から挟撃され、意図的にそのような情報が流されたということじゃないでしょうか。(p.358

 

 解題より

 田中清玄のもう一つの特徴は、それだけ行動的でありながら、その一方でまるで思想家のような発言と人脈づくりを行ってきたことである。例えばノーベル経済学賞を受賞したことで知られるフリードリヒ・ハイエクとの親交がそうであり、また京都学派の中心的学者といわれた今西錦司との交遊もそうであった。しかも重要なことは、田中が彼等の学問の今日的、かつ将来的意義を正確に見抜いた上で、付き合いを深めていることである。単なる儀礼的付き合いなら、ハイエクのノーベル賞受賞のパーティで、メインテーブルに座るただ一人の日本人には選ばれなかっただろうし、今西との対談のために、ハイエクが三回も日本に足を運ぶこともなかったに違いない。(p.378

 

 インタビューを終えて より

 証言の中の戦前の左翼運動時代のことを確認するため、ある左翼系歴史学者に電話を掛けたとのことである。「なに、田中清玄? ああ、あれはインチキですよ」と切り出したのを忘れることはできない。(中略)冷戦が終わり共産主義がこの地球上からほとんど姿を消そうとしている現在、いまだにイデオロギーに振り回され、「転向」の一事をもってその人物そのものを全否定しかねない人が、世の中にはまだまだ結構いることを改めて思い知らされた感じがしたものである。(p.390

 

『吉本隆明が語る戦後五五年H 天皇制と日本人』三交社、2002年、pp.85-87、より

 たとえば六○年ごろでも、全学連の主流派の幹部連中が、右翼の田中清玄から三○○円ぐらい借りたというんですね。そしたら、借りた男と田中清玄がレストランで会食して飲んでいるところを共産党に写真を撮られちゃって、世間に向けて悪宣伝されたんです。

 たとえば柄谷行人なんかは、雑誌の座談会で、あいつら幹部どもは右翼のカネをもらったりしてよくないとかいっているわけです。そんなことをいうインテリが大勢いるんです。

 だけど、僕はそうはいわないんです。僕の原則は、右翼だろうが左翼だろうが、寄附されたカネはみんなもらっちゃえってことです。その代わり、応分の宣伝はする。だから、僕にいわせれば問題にならないんです。柄谷は実際の活動を何も知らないくせに、おかしいとかいうんですが、僕なんかは冗談じゃないよって思いますね。

 そのとき、全学連の首脳が僕のところにきて、こういうことで困ってるから、何とかならない問題ですかねって相談したんです。それで、オレに何か書けというなら条件がひとつある、田中清玄の悪口を書いてもいいかって訊いたら、かまいませんよっていうんです。「いくらぐらい借りたの?」って訊いたら、「三○○万円ぐらい」ってたしかいってました。それで僕は『読書新聞』に書きまして、連中は助かったとかいってましたけどね。

 助かったもヘチマもなくて、ようするにそんなことは問題にならない。つまり、あれだけ多くの人が全国的に動いているわけですから、ずいぶんカネがいることぐらい、すぐ判断できるわけです。三○○万円なんてのは問題にならないくらい少額なんですよ。

 

吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」

『日本読書新聞』1963,3,25、『吉本隆明全著作集 13』所収、pp.121-130、より

 二月二十六日夜、TBSラジオは「ゆがんだ青春−−全学連闘志のその後」と題して、安保闘争時における全学連幹部であった、唐牛健太郎、東原吉伸、篠原浩一郎らが、元日共党員でいまは反共右翼である田中清玄の企業に就職していること、および、安保闘争時に田中清玄から闘争資金を引き出していた、という「事実」をもとにして、田中清玄その他を登場させた「録音構成」を放送した。

 この「録音構成」をもとにしてエロ新聞なみのひわいな中傷記事と、「全学連」によって主導された安保闘争全体にたいする誹謗の政治的アジテーションをもって、日本共産党機関紙『アカハタ』は連日、政治的カンパニアを組織している。これに伴奏するように、「知識人」が、例によって、例のごとくつまらぬ感想をのべてこの誹謗に加わった。

 発端で、TBSラジオ放送の「録音構成」を、政治的に利用したのが日共であったのか、あるいは日共が、マス・コミの猿芝居にのせられた猿であったのかは、なにも興味ある問題ではない。(中略)

 さて、マス・コミと日共の伴奏する泰山の鳴動は、わたしたちの手に、なにをのこしたのだろうか?

 第一に、安保闘争時における全学連の幹部の若干が、いま、田中清玄の企業で働いていること、第二に、安保闘争時において田中清玄から闘争資金として「数百万円」(週刊誌の記載による)を引きだしたこと、などが「事実」として残ったのである。像の記述の世界に奪われた脳髄をひやして、現実性に還元したとき、何と問題自体が下らぬものではないか。(中略)

 かれら、古典的「進歩」主義者は、田中清玄→武装共産党の指導者→転向→反共右翼→悪玉→恐怖(陰謀)というように、理解の矢を結びつける、いやしがたい心的な傷痕と、古典性を刻印されている。それから逃れることはできないのである。

 田中清玄の閲歴や「転向」の実体については、「思想の科学」の「転向」研究によるほか、つまびらかにしない。

 今回の反安保闘争の一連のカンパニヤに登場したかぎりについていえば、その言動・挙措は、ただ、お人好しの下らぬ人物にしかすぎないとおもう。ハシタ金を全学連にカンパし、それを契機に、接触の機会をもった安保闘争時の全学連の若干部分の幹部に、昔の自慢話をしてきかせ、かれらの闘争ぶりに感激したあまり、街頭デモに見物に出かけ、無智な出しゃばりの口を出し、それくらいで、自己が安保闘争の主導勢力に影響を与えたかのよう錯覚している、ただの好々爺の像しかそこには存在しないのである。そして三年後にかれらの若干に職をあたえたことを自慢にしている中小企業のおやじがいるだけではないか。

 悪玉? 陰謀家? 恐怖? もし、今日の田中清玄から、そんな像をみちびくとすれば、かれら進歩的「知識人」のなかに、戦争期にうけたインフェリオリティ・コンプレックスと、古典進歩主義の「理念」との結合が、ひとつの「宗教」的固定概念として存在しているからである。日本共産党と、その離脱者としての田中清玄のあいだの「私恨」などに何の意味があろうか。それらは、古典的円環、スターリニズム→アナキズム→ファシズムのなかの相互の「鏡」

対立にすぎないからである。また、古典的マルクス主義の同伴者が、「右翼」にいだく伝染性の「悪玉」感や「恐怖」感などには何の意味もない。それは、古典マルクス主義の終焉とともに、終焉するものにすぎないからである。

 日本的右翼の諸型態を止揚できない、どんな左翼的思想も無効であることは、戦争責任論いらいのわたしの一貫した主張である。これを止揚できず、ほおかぶりして復元した「左翼」的思想は、おおすじのところで、スターリニズムとファシズムとの間を、ただ、くるくる円環するほかないからである。

 戦前には「転向」し、戦争中にはファシズムに移行し、戦後はまた「マルクス主義」に移行するという円環のなかで、この移行を完成したものと、しないものとの対立や「私恨」などに、何の意味があろうか。(中略)

 古典的な「転向」論はいかなる意味でも、現在の状況では存在しえない。戦前の古典的な概念によれば、、リングの上の選手がノックアウトされたとき、それに荷担したものも舞台をしりぞかねばならなかった。また、ひとたびノックアウトされたものは、もとのコーナーから姿をあらわすことができず、究極的には反対のコーナーから登場せざるをえないものであった。しかし、わたしたちの「戦後」の情況は、ノックアウトされた選手に荷担した観客席は、ラムネなどのみながら、現象的に「存在」し、石さえ投げることができるし、ノックアウトされた選手はいつの日かおなじコーナーから登場することができるのである。これこそが「戦後」でありその情況の本質である。(中略)

 革共同全国委員会の機関紙『前進』(三月十一日号)は、まさに、かれらの同志そのものである唐牛・篠原を、革命運動から脱落した転向者であると指弾している。ここには、組織エゴイズムとネオスターリニズム的発想の再生する姿しかない。しかし、「情況」は、革共同全国委員会を第二の「日共」に成長せしめることも、唐牛らを第二の「田中清玄」に変質せしめることもありえないだろう。

 わたしたちは、歴史の地殻の変化を、その程度には信じてもいいのである。

 

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